戸崎は夜と遊ぶ

人生は、博打だ。

吾輩は屑である(三)

そうしてすっかりギャンブルが生活の一部になった私だが、一貫して考えていることがいくつかある。

まだ三十路を迎えたばかりの若輩が大変恐縮ではあるがそれは下記の通りだ。

一、自分より強い者と勝負しない

一、思考は止めない

一、胴元の回収率が高いものは避ける

一、ユーザーへのサービスは活用する

一、てゆうか胴元になる

私は趣味としてギャンブルを楽しむ為に、胴元となった。

以前大敗を喫してからより勝つ確率を上げる為に研究もした。

このブログでは私戸崎の私生活や考え方を発信し、時にギャンブルへの研究成果なども綴っていきたいと考えている。

あくまでブログも様々なリスクを内包した博打のようなものとも考えている。

ギャンブルが生活の糧になれば…

負けてばかりで楽しめない…

博打中毒…

こう思う方がこのブログにたどり着いたのなら、ぜひこの先も読んでいっていただけると私も救われる。

当ブログからユーザーに明らかに不利なギャンブルや投資に誘導する事は、無い。

勿論違法なモノ、高額塾、どうにも胡散臭い副業もこのブログではNGとする。

これらの情報は無料で提供していくものであるが、私自身がギャンブルで収入を得て、破産せずに生きている事が読者諸兄らに有益な情報である事は明らかであろう。

何を偉そうに。そう思った貴方も、馬鹿にしながら或いはSNSでネタにしながら楽しんでいってもらえたら私も嬉しい。

ギャンブルは貴方を破滅に導くものではなく、高尚な趣味の一つなのである。

時には絶望に苛まれ、また時には多幸感を齎すこの趣味を手放す必要なぞないのだ。

最後に。

このブログはギャンブルの考え方や遊び方、勝ちに近づく方法を垂れ流すものではあるが、推奨しているワケでは無い。

仕事をして収入を得るのは大切だし、許容範囲を超えたギャンブルは趣味とは言い難い。

何事も余裕を持ってトライして頂きたい。そう願っている。

吾輩は屑である(完)

吾輩は屑である(ニ)

私は高校在学中にシステム開発、販売の会社に入社することになった。

営業の仕事はスロットの稼働とすこし似ており、様々な客先を電車や自転車で巡って、商談がまとまればインセンティブとして金が入る。

好きな時に足を休め、良い日はとにかく電話をかけまくったり飛び込みに行った。

3ヶ月も働くと営業のコツを掴み、18歳にしては稼いでいた様に思う。 金が増えると遊び方も変わってくるもので、私は会社の同僚に連れられ、闇スロというものに初めて行った。 闇スロは楽しかった。表の店には置けない昔の台が高額レートで打てるので勝つ金額が大きい。 4号機という機械は今と比べ物にならないくらいの出玉力が有ったので、1日の勝ちが80万円程になる事もあった。 例に漏れず私も闇スロにハマってしまい、違法ギャンブルの波に飲まれていく事になる… 収入が足りないと感じた私は転職に踏み切る事にした。 オリバーストーンが監督を務める「ウォール街」(マイケルダグラスが出ている)を見て、証券マンなら今よりも稼げると思ってしまった私は某証券会社の門戸を叩いた。 結果、失敗だった。 収入は多少上がったものの、生まれつき身体の強くない私は証券会社の激務についてゆけず過労によって肺炎を起こしてしまい、緊急搬送される事態に。 記憶は無いが、自分で救急車を呼んでいたそうだ。 一週間程で退院すると、三度目の就職活動が始まった。 営業の成果をポートフォリオとして某不動産販売会社と国内の小さなコンサル会社の二社を受け、どちらも内定を頂く事が出来た。 高卒でも割と戦えるじゃあないか。 入社時期の関係でコンサルの会社に決まった私は新商品の販売戦略のプロジェクトで現場に入る事に。 無事に仕事をこなし、インセンティブが入るとすぐに闇スロに行った。 証券会社時代の給与も合わせて2週間で170万程負け、ギャンブルというものが嫌になった。 朝方の京浜東北線でオ○ニーするくらいにはショックであった。 どうかしている。 三に続く

吾輩は屑である(自己紹介その一)

私の名前は戸崎司(とざきつかさ) バランスが取れたようで取れていない、妙な名前の自称底辺ギャンブラーだ。

初投稿なので自己紹介をしたいと思う。もし何かの間違いでこのページに辿り着いてしまった方は、厚かましいとは承知であるがさらりと見てもらえると筆を取った甲斐が有るというもの。 

戸崎という人間はこうだ。

1990年夏 サザンオールスターズの「真夏の果実」が流行っていた頃某大学病院にて産声を上げた。 不思議な事に30を過ぎた今になっても父と母の間を這って行き来していた日の事を覚えている。這いつくばっているのは30年前と変わらないか。 小学校高学年になるとゲームセンターで取ってきた景品を職員室で獲得に要した額の5倍〜10倍で売るなどして小遣いを増やしていた。家は比較的裕福で有ったので金には困らなかったが、自分で仕入れた物を嬉しそうに買っていく事が俺にもまた嬉しかったのだ。少々高くてもゲームセンターにしか置かれていない限定グッズは売れ易かった。 当然後で問題になって中止せざるを得なかったのだが。 私はそこそこ運動神経が良かったのだが生まれ付き身体が弱く、中学に入ると性格や人付き合いの悪さもあってか少しいじめを受けるようになった。 だから学校へ行くのは辞めた。勉強なら家で出来るし、当時通っていた塾の方が楽しく学べたから特に真面目に学校へ行く必要を感じなかった。 その為日中はパチンコ屋でスロットを打ったりゲームセンターや漫画喫茶で過ごしている事が多く、大人になればなるようになってゆくと漠然とした考えで進路も適当に決めた。 学校で過ごす時間は給食の時間と当時映像技術の勉強をしていたHらと話す時間くらいだったか。 修学旅行は参加したが地獄だった。3年間同じ学校なのにほぼ初対面の者3人と同室なぞ、自分で招いた結果とはいえ「これが青春ってやつか〜」等と絶望したものだ。 高校生になると単車に乗り始めて行動範囲が広がって人生が始まった気がした。 学校へも通うのが楽になったから初めの頃は真面目に通っており、バイク通学(駄目らしい)の生徒は珍しかったので女子にもちやほやされて学校が楽しかった。 調べた事も無いので知らないが多分偏差値40位のおバカ学校で、授業は割と崩壊していた様に思う。 男女共にヤンキーが多く、また結構イイ奴も多かった。 パチンコ屋には継続して通っており、エヴァン○リオンのスロットは特に勝率が高かったので単車を転がして複数店舗見て回って稼がせて貰った。 私は「これが青春ってもんだよなぁ」と1人納得していた。 この頃麻雀と出会い、強くなりたいと感じた私は年齢を偽って麻雀屋でバイトするようになる。 やはり学校へは行かなくなり、日中のバイトが終わったら他の店に麻雀を打ちに行って夜はネット麻雀で記録を取って勉強した。バカは遠回りが好きなんだ。 麻雀の本なんかも何冊か読んだが、怪しい事を書いた内容が多くあまり参考にはならなかった。(最近の戦術本は良いものが多いが当時はまだデジタルという考え方が定着しておらず、流れとか状態とかが平気で1600円もする本に書いてあったのだ) そんな本は仲間内で麻雀好きな奴にくれてやり、カモを育成しておけるので1600円以上の価値は有ったかな。 次回につづく